古代都市ポンペイの歴史:はじまりから終わり、発掘まで

この投稿では、イタリア南部の都市・ポンペイが成立し、滅亡するまでの歴史についてご紹介します。

はじまりのポンペイ


🍓 初期のポンペイ
  • 初期のポンペイ周辺には、オスキ人と、ヒーコ人が住み、紀元前7世紀頃には、サルノ川の河口の付近にあった丘に集落が存在したことが知られています。
  • 紀元前526年には、エトルリア人に占領されました。
  • これに対し、ポンペイ市民はイタリア南部に住んでいたギリシャ人と組みます。
  • そして、紀元前474年に、ポンペイの市民はクマエの海戦でエトルリア人と戦って破り、支配を脱しました。

 

たたかうポンペイ

緑:紀元前100年頃の、ローマの影響圏と植民地.
濃赤:紀元前100年頃の、ラテン人部族の植民地。
薄赤:紀元前100年頃の、ローマの同盟地。

🍆 ローマとの戦争👉植民地に
  • イタリア南部カンパニアの複数の都市が組み、同盟市戦争をローマに対して起こすと、ポンペイも、他の南部諸都市と一緒に、ローマに反抗する戦いに参加します。
  • しかし紀元前89年、ルキウス・コルネリウス・スッラに征服され、ポンペイは、カンパニアの諸都市と同様、ローマの植民都市となりました。

 

滅亡するポンペイ

🔥 火山の噴火と火砕流
  • 紀元後62年2月5日にポンペイで地震が発生し、大きな被害が出ました。
  • 79年8月24日以降のある日、午後1時頃に、ヴェスヴィオ火山が噴火しました。
  • 8月25日(噴火から約12時間後)の噴火末期に火砕流が発生しました。この火砕流にポンペイの町は飲み込まれ、埋まってしまいました。

 

発見されるポンペイ

🍌発掘👉再発見
  • 1599年、建築家のドメニコ・フォンターナが、サルノ川のそばを掘って、ポンペイの遺跡を発見しました。
  • 1748年、ポンペイが再発見されます。その後、建物や壁画を見つけるための、発掘が散発的に続きました。

その後のポンペイ

🍌インスピレーションの源として
  • ポンペイの出土品は、のちの世の芸術家に大きな影響を与えました。
  • 19世紀フランスの建築家フェリックス・デュバンは、様々な出土品から着想を得て、古代風に作ったインテリアの絵を描いています👆

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