【ミネアポリス美術館展作品解説】東洲斎写楽《市川鰕蔵の竹村定之進》江戸時代、寛政6年(1794年)、木版多色刷、大判錦絵、ミネアポリス美術館

東洲斎写楽《市川鰕蔵の竹村定之進
18世紀、ミネアポリス美術館

東洲斎写楽《市川鰕蔵の竹村定之進》江戸時代、寛政6年(1794年)、木版多色刷、大判錦絵、ミネアポリス美術館
東洲斎写楽《市川鰕蔵の竹村定之進》
江戸時代、寛政6年(1794年)
木版多色刷、大判錦絵
ミネアポリス美術館

はじめに

この投稿では、「ミネアポリス美術館」展(@サントリー美術館)出品作、東洲斎写楽《市川鰕蔵の竹村定之進》についてご紹介します。


1. 「江戸三座役者似顔絵」

写楽は寛政6年(1794年)5月~翌年1月の約十か月間に、145点余の作品を版行します。その中に含まれる「江戸三座役者似顔絵」は、寛政6年5月に刊行され、雲母摺大判28枚の役者「大首絵」です。このシリーズに「三代坂田半五郎の藤川水右衛門」、「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」、「嵐龍蔵の金貸石部金吉」とともに、「市川蝦蔵の竹村定之進」が連なります。

2. モデルと役柄

この絵は、明和7年(1770)11月に団十郎を襲名し、「極上上大吉無類」と絶賛された、歌舞伎役者市川蝦蔵(五世団十郎)をモデルに描いています。表されているのは寛政6年(1794)5月に河原崎座で上演された、「恋女房染分手綱」(こいにょうぼうそめわけたずな)の一場面です。これは由留木家のお家騒動を背景として、伊達の与作と重の井の恋、それにまつわる悲劇を描いた演目です。蝦蔵は、前半の山場である道成寺の主役・丹波国由留木家の能師役、竹村定之進を演じました。


3. ストーリーと描かれた場面

由留木家の家臣伊達の与作が、若殿の恋人芸妓いろはの身請け金を鷲塚八平次らに盗まれ、さらに腰元重の井との不義のかどで主家から勘当されます。重の井の父で能役者の竹村定之進が責任を感じ切腹をしたことにより、重の井は許されて姫の乳人(めのと。乳母。)となります。与作と重の井の間に出来た子・馬子三吉が名乗りをせずに別れる「重の井子別れ」があり、そして鷲塚一味の悪事も露見、与作と三吉が八平次を討ち主家に戻ります。絵の中でモデルは裃姿なので、竹村定之進が切腹をする場面であると想像されます。

4. 「大首絵」の表現スタイル

写楽はモデルの身体の特徴的な各パーツを誇張して描いています。逆ハの字に開く眉、見開いた両眼、目の皺、大きな鷲鼻の下では、結んだ口元の端が緩み、赤い舌が見えています。大柄の体格、彫りの深い顔、受け口、重ねた両手の上では、襟や裃の描線が重ねられます。


役者を見分けるための紋としては、蝦蔵の定紋、大中小の三つの升形が、入れ籠になった「三升(みます)」が見えます。背地には雲母、膠と墨を混ぜ紙に置く「雲母摺」(きらずり)が施され、画面の中央に大きく描かれた役者の姿を際立たせ豪華にみせています。



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