ペルシャ美術
《レリーフ彫刻:役人像》
ペルセポリス出土 アケメネス朝期
紀元前600-500年 石灰岩
大英博物館
アケメネス朝レリーフの定番の素材=石灰岩製の作品。
👆動画🎬シリーズ「西洋美術史入門」、第4回の動画🎦では、古代ペルシャ美術を取り上げました。この、いまのイランを中心に行われたペルシャ美術は、中国、そして、インドの美術とともに三大東洋美術のひとつとして、史上に存在感を示しています。
《雄牛巨像》
アケメネス朝期 紀元前426-前424年
ペルセポリス王宮「百柱の間」出土
石灰岩 シカゴ大学東洋研究所博物館
角はかけていますが、目の大きな牛🐄の像です。
上瞼や鼻の穴の上に寄る皺が、造形のアクセントになっています。
ペルシャ美術は動物モチーフの表現も得意としています。
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紀元前6世紀には、イラン高原に興った部族が、支配者キュロスのもと、アッシリア滅亡後に古代オリエント世界において存在感を放った国家のうち、イラン北西部のメディア王国(~紀元前550年?)、そしてメソポタミアの新バビロニア帝国(紀元前625-前539年)を倒し、自ら大帝国・アケメネス朝ペルシャを打ち立てます。👑
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キュロスの墓
パサルガダイ南方約1㎞の地点に位置する「ソロモンの母の墓」と称される建築物。
キュロスの墓と目されている。
六段を重ねる基壇を積んで、切妻屋根を戴く形式。
ダレイオス1世以降の王の、崖を穿ち築いた墓とは大きく異なるスタイル。
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参考文献:阿部拓児『アケメネス朝ペルシャ』2021年、53-54ページ
- アケメネス朝の創始者👑キュロスの墓は、自身が計画した王宮都市であるパサルガダイに造営されました。
- 同墓については、ローマ時代のギリシャ人歴史家アリアノスの著書『アレクサンドロス大王東征記』に記述があります(なお、この情報はアレクサンドロスの軍に従った歴史家アリストブロスに由来するとされます。)。
- キュロスの墓の周囲には、庭園が造られ、墓は多くの種類の木々🌲に覆われ、人工的に供給される水💧が流れていました。
- 墓の部屋に入る入り口は、人ひとりが通れる程度の大きさで、墓の中には、黄金で作られた棺の中に、キュロスの遺体が納められ、その傍らには、足に金の細工を施した長テーブルが据えてありました。
- テーブルの上には、あでやかな衣装が多く置かれ、装飾品や剣⚔が供えられていました。
- 墓が位置する領域には、代々任を受け継ぐ墓守が常に身を置き、毎月、キュロスに馬🐎を犠牲として捧げていました。
- なお、アレクサンドロス大王👑はキュロスを尊敬していたため、墓が荒らされると内部を修復し、入り口を塞ぐ措置を取ったとされています。
👑キュロスに続く、👑ダレイオス1世(在位:紀元前522-前486年)、👑クセルクセス1世(在位:紀元前486-前465年)の諸王は帝国を拡大し、さらに支配地において大規模な造営事業を積極的に実施しました。
《ベヒストゥン碑文》
イラン西部 ケルマーンシャー州
- この石碑には、浮彫による複数の人物像と共に、エラム語、古代ペルシア語、アッカド語(新バビロニア語)でアケメネス朝の王ダレイオス1世の即位の経緯とその正統性を主張する長文が記されています。
- 碑文にはダレイオス1世が出自、支配領域、アウラマズダー神から委ねられた王位、反乱の鎮圧について語る内容が確認されます。
ペルセポリス王宮
- 現在のイラン南部・ファールス州において、古代にあって威容を誇ったペルセポリス(ギリシャ語で「ペルシア人の都」の意)の王宮🏡(紀元前518年)は、ダレイオス1世が建設した宮殿群です。
- ベースとなる壇の部分が縦横が300 x 500 m、これに加えて最も高い部分では12mに達する高さを持つ巨大さが特徴です(👆復元予想図)。
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ペルセポリス王宮には、「百柱の間」などが配置され、石で作られた壁面の多くは、浮彫(レリーフ)を彫刻して表された、人物像👨や動物🐎🐫モチーフの数々によって飾られ、在りし日のアケメネス朝帝国において目の当たりにされた、おびただしい数の人や物を束ねる強力な支配の力と、物質的な豊かさを見る者に感じさせます。◆ ◆ ◆
《百柱の間》ペルセポリス王宮
- クセルクセス1世が造り始め、その息子アルタクセルクセス1世治世に完成。
- 君主👑が臣下に謁見するために設けられたスペース。
- アレクサンドロス大王によって火を放たれて破壊され、現在は残骸が残っています。
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《万国の門》ペルセポリス王宮
- 門は、アッシリアの君主の宮殿にも見られたような、人頭有翼の獣によって左右を守られています。
- 内側には楔形文字のバビロニア語・エラム語・ペルシャ語の3つ言葉でクセルクセス1世の辞が刻まれています。
帝都ペルセポリスに作り上げられた古代のペルシャ王👑のための宮殿は、帝国の威光✨が及んだ各地の伝統と技術を摂取し、エジプトやギリシャといった遠隔地の芸術も統合した、世界帝国をなしたアケメネス朝ペルシャを象徴する記念建造物であると高く評価されています。
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「東方遠征」からパルティアの支配まで
その後、アケメネス朝は、ギリシャ・マケドニアの王であるアレクサンドロス大王の東方遠征を受けて崩壊します。
アレクサンドロス大王に敗れるアケメネス朝の王👑ダレイオス3世
さらにアケメネス朝が存在した領域は、アレクサンドロス大王の後継者(ディアドコイ)のセレウコスが建てたシリアの王国・セレウコス朝の支配を受け、加えて、西アジアにイラン系遊牧民の建てた国・パルティアの支配をうけました。
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《ヤマネコのリュトン》
パルティア 1世紀
メトロポリタン美術館
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ササン朝:ペルシャ文明の最盛期
- そして、紀元後3世紀から7世紀までの間の時期に、ササン朝ペルシャが栄えます。
- ササン朝の400年間はペルシャ文明の最盛期でした。
- その間、ペルシャ帝国の領域は、西はメソポタミア、東はインド、北は中央アジア、南はペルシャ湾にまで拡大されました。
- 帝国の北部はシルクロードが過ぎり、東西の文化や芸術様式、技術が流入して、国際性豊かな美術が生み出されました。
ササン朝ペルシャの建築
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《フィルザバード宮殿》
3世紀前半
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ササン朝の建築物には、大規模なドーム(円屋根)が使用されました。
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《フィルザバード宮殿》
3世紀前半
"Dokhtar castle, Firuzabad- by Hadi Karimi" by Hadi Karimi is licensed under CC BY-SA 4.0.⛪
ササン朝ペルシャ建築の特徴である大型ドームは、建築史の中では、その後、イスラム教圏の建築や、中世ヨーロッパの建築に影響を及ぼします。ササン朝ペルシャの工芸
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《狩猟文皿》
ササン朝 5世紀
銀に鍍金
メトロポリタン美術館
ササン朝の工芸としては、金属工芸の作品👆やガラスで作られた器などの製品👇、染織品👇👇に関して優れた品物が知られています。🥣
《碗》
ササン朝 6-7世紀
カットガラス
8.1 × 10.3 × 10.3 cm
メトロポリタン美術館
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《繊維製品:断片》
ササン朝 6-7世紀頃
メトロポリタン美術館
装飾文様については、孔雀🦚、竜🐲、天馬の🐦鳥獣文、狩猟文🏇、連珠文が、イスラム美術や、唐代中国の美術に加え、さらには奈良時代の日本美術、具体的には正倉院御物にも影響を与えています。
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《円形切子碗》
ササン朝 5-7世紀
東京国立博物館
「ColBase」収録➡リンク
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👇動画では、ヤギ🐐のような動物モチーフを、胴部にシルエットで描いた、デザイン性の高い彩文土器から、同じく動物モチーフを表した、青銅や金で作られた金属器、それから、アケメネス朝ペルシャの王の宮殿を支えた、基壇に彫られた各地から効能品を運ぶ人物たちを表した装飾レリーフ、最後に、日本に渡来した、ササン朝ペルシャで作られたガラス器🍷などについて解説します。
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