「初期ネーデルラント絵画」とは?
ヤン・ファン・エイク《ドレスデン祭壇画》
1437年 板に油彩 275 x 330 cm ドレスデン国立絵画館
初期ネーデルラント絵画(Early Netherlandish Painting)は、ドイツの美術史家、マックス・ヤーコプ・フリートレンダー(1867-1958年)が初めて規定した概念です。
初期ネーデルラント絵画(Early Netherlandish Painting)は、ドイツの美術史家、マックス・ヤーコプ・フリートレンダー(1867-1958年)が初めて規定した概念です。
🎬作品解説動画👇
ピーテル・ブリューゲル《ネーデルラントの諺》
1559年 ベルリン美術館
ネーデルラント各都市における画家の活躍
初期ネーデルラント絵画といったときには、地理的には、現在のベルギーとオランダの領域に含まれる、スヘルデ河畔の🏙アントウェルペン(アントワープ)を中心とする、おおよそ半径100㎞の圏内が範囲となります。ヤン・ファン・エイク《ターバンの男》1433年
板に油彩 25.5 x 19cm ロンドン・ナショナル・ギャラリー
カンピンの弟子の🎨ロヒール・ファン・デル・ウェイデン(1399年/1400-64年)は、現在のベルギー中央部の都市・ブリュッセルへ移り、「市の画家」として活躍しました。
👆ファン・デル・ウェイデン《七つの秘蹟の祭壇画》
1455年頃、板に油彩 200 x 223 cm アントワープ王立美術館
🎬作品解説動画👇
ピーテル・ブリューゲル
《ネーデルラントの諺》
1559年 ベルリン美術館
ブルゴーニュ公国の繁栄と画家たちの活躍
- 初期ネーデルラントの画家たちは、ブルゴーニュ公国の領内でさかんに活動しました。
- ブルゴーニュ公国は、現在は存在しない国家ですが、中世ヨーロッパにおいて、重要な位置を占める強国でした。
- このブルゴーニュ公国は、1363年にフランス王ジャン2世が、ディジョンを中心とするブルゴーニュ地方を、息子のフィリップ豪胆公に譲ったことに始まります。
ジャン2世の子、フィリップ豪胆公は、婚姻を通して、フランドル地方などを国土に加え、結果として、大ブルゴーニュ公国が成立し、1世紀にわたり続きます。
- 1369年、フランドル伯の娘マルグリット・ド・ダンピエールと結婚し、ヘントで式を挙げ、フランドル伯領を継承。
- 1384年、フランス南東部のブルゴーニュ公・伯領にフランドル伯領を加え、ブルゴーニュ公国形成へ向けた展開を始めました。
ブルゴーニュ公爵フィリップ2世
豪胆公
1342-1404年
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《フィリップ豪胆公の墓》
ディジョン、ブルゴーニュ公爵宮殿
合掌して横たわる公の足元には🦁がうずくまり、枕元には👼が来ています。
- フィリップ豪胆公の後継者は、長男のジャン無畏公でした。
- しかし、ジャン無畏公は、1419年、モントローの橋の上で、ガリカニスム(フランス教会自立主義)を謳うアルマニャック派により暗殺されてしまいます。
- そして、子👨のフィリップ善良公が跡を継ぎます👇
フィリップ善良公の治世の間、つまり、1419-68年において、ブルゴーニュ公国は半世紀にわたって最盛期を迎えます。
- フィリップ善良公は、父を暗殺したアルマニャック派が推すフランス王太子のシャルル7世に対抗するために、親イングランド路線を取り、国の重心を、フランス=ブルゴーニュ公領の首都ディジョンから、北方のフランドル諸地域へと移しました。
- 1430年代には、フランドル伯領を今のベルギー、オランダ、ルクセンブルクのほぼ全域に拡大しました。
- 具体的には、フランス北東部ピカルディ、アルトワ、フランシュ=コンテ、ロレーヌを加えて、地政学的大空間「ブルゴーニュ国家」形成を成し遂げました。
- そしてヴァロワ傍系ブルゴーニュ公国は最大の繁栄期を迎え、枢要都市リール、ブルッヘ、ヘント、ブリュッセルに設けられた宮廷は、中世末期のヨーロッパにおいて文化の中心として機能していました。
- フィリップ善良公のもとブルゴーニュ公国が繁栄を誇った時期には、🎨フーベルトと🎨ヤンのファン・エイク兄弟に加え、🎨ロベルト・カンピンと🎨ロヒール・ファン・デル・ウェイデンの師弟も、ネーデルラント派画家として活動しています。
フーベルト・ファン・エイク
1385-90年頃
二大巨匠の評価:ファン・エイクとファン・デル・ウェイデン
15世紀イタリアの著述家・歴史家の人文学者であるバルトロメオ・ファツィオ(Bartolomeo Facio 1410-57年)は、1454年から55年頃にものした著書『名士録(De viris illustribus)』において、ヤン・ファン・エイク(1395年頃-1441年)とロヒール・ファン・デル・ウェイデン(1399/1400-64年)について、最初の評伝を書いています。
バルトロメオ・ファツィオ
『アルフォンソ・ダラゴンの事績』
1580年
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ヤン・ファン・エイク
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フーベルト&ヤン・ファン・エイク《ヘントの祭壇画》
1432年、板に油彩、シント・バーフ大聖堂
上述のファツィオは、ヤン・ファン・エイクを「光の画家」と称賛しましたが、その「光」があふれる神の世界が、翼を開いた祭壇画の画面には描かれています。
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さらにフィレンツェのフランチェスコ・ランチロッティが三行詩『絵画論』(初版:ナポリ、1506年)で「イタリアの画家達よりもフランドルの画家たち」が描いたと述べる「近くの田園や遠くの景色」のようなモチーフも、ヤン・ファン・エイクの祭壇画には手前の緑の丘と🌳樹木、その向こうの建物群の表現に既に確認されます。
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ヤン・ファン・エイク《アルノルフィーニ夫妻》1434年
板に油彩、81.8 x 59.7cm、ロンドン・ナショナル・ギャラリー
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👆ヤン・ファン・エイク《宰相ロランの聖母》
1434年頃 板に油彩 66 x 62 cm ルーヴル美術館
ファン・デル・ウェイデン
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👆ファン・デル・ウェイデン《十字架降架》
1435年頃 オーク板に油彩 220 × 262 cm マドリード プラド美術館
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- 下の拡大図の👇小さな涙の粒💧の再現的描写に注目。表面に表されたハイライトの明るい色の箇所と、雫の下部に施された陰影の表現により、透明な滴を描いています。
- 上述のファツィオは、この画家の同じく十字架降架を主題とする作品について述べる中で、涙の表現に関して、「人々の悲嘆や涙はあまりにも見事に描かれているので、この絵を見る者はそれが本物としか思えないだろう」とその自然主義的な描写を絶賛しています。
👇ファン・デル・ウェイデン《ミラフロレスの祭壇画》
1442-45年頃、板に油彩、220.5 x 259.5 cm、ベルリン絵画館
ファン・エイク以後の展開
ヤン・ファン・エイクのあとには、①ファン・エイクの後継者である🎨ペトルス・クリストゥス(1410/20-75/76年)、②ヤン・ファン・エイクとロヒール・ファン・デル・ウェイデンから影響を受けた🎨ディーリク・バウツ(1410年/20年頃-75年)、③ブリュッセルのファン・デル・ウェイデンの工房で修業したらしい🎨ハンス・メムリンク(1430年/40年頃-94年)たちが活躍しました。
17世紀のブリュッセルの街並みを伝える版画
ペトルス・クリストゥス:ブルッへのファン・エイクの後継者
クリストゥス《若い女の肖像》
1470年頃、ベルリン絵画館
🌟クリストゥスの作品は、わかりやすい遠近法の使用と、初期ネーデルラント派の特徴である入念な細密描写によって特徴づけられます。
15世紀の写本挿絵に描かれた画家のアトリエ。
女性画家が全身肖像画を前に仕事中の様子。
1441年にファン・エイクのアトリエに加わり、1441年にファン・エイクが世を去ると、そのアトリエを引き継ぎました。
👇クリストゥス《キリストの降誕》
1445-50年頃、ワシントン・ナショナル・ギャラリー
聖母の体に比して小型の天使たちがかわいい。
最前景の石の建築モチーフと、遠景の風景の対比が、
画面内を渡っていく距離の長さを強調しています。
ハンス・メムリンク:クリストゥス亡き後のブルッへの巨匠
15世紀後半のネーデルラントで活動したメムリンク(1430年/40年頃-94年)は、ブリュッセルのファン・デル・ウェイデンの工房で修業したと考えられる画家です。👇ハンス・メムリンク《東方三博士の礼拝》
1470/79-80年頃、板に油彩、95 × 271 cm
マドリード、プラド美術館
👇ハンス・メムリンク《奏楽の天使たちに囲まれたキリスト》
1483-94年頃、板に油彩、165 × 672 cm、アントワープ王立美術館
大きなキリストを中心に、キリストより小さい天使が、左右に同数立ち並んでいます。
左右の対称性が強い中世的な構図と、新時代の自然主義的細密描写が共存する作品です。
1465年にはブルッへの市民権を獲得、経済的に成功をおさめました。そのため、1480年には同市に所属する富裕市民として神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世に戦時税を支払っています。
👇神聖ローマ皇帝
マクシミリアン1世
1459-1519年
ディールク・バウツ:ルーヴェンで活躍した巨匠
👇ディールク・バウツ《聖母の生涯の三連祭壇画》
1445年頃、板に油彩、80 x 217 cm、プラド美術館
🎨ファン・デル・ウェイデンが描いたキリストの遺体の周りで涙💧する人々のモチーフから発展して、「涙を流す😢キリスト」を描き始めた画家であるとされます。
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🎬作品解説動画👇
ディールク・バウツ《聖母子》
1455-60年頃 メトロポリタン美術館
🎨バウツは「感情表現を重視」しながら、ときに線遠近法(パースペクティヴ)を使用しつつ、「宝石💎のよう」と形容される明るい色彩を賦して、バランスの取れた構図の中にモチーフを描きました。
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👇ディールク・バウツ《最後の晩餐》
1464-67年頃、板に油彩、ルーヴァン、聖ペテロ教会
レオナルド・ダヴィンチの同主題作品は横長ですが、
この作品は同じく線遠近法を強調しながら縦長の画面。
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ファン・デル・フース:画家組合から修道院入りした珍しい芸術家
- ファン・デル・フースは、現在のベルギー北部、かつてはフランドル伯領の都市であったヘントに生まれ、同市の聖ルカ組合に加入して画家として活動しました。
- 1474/75年には組合長に就任し、フランドル画壇の重鎮として存在感を示しました。
- しかし突如俗世を捨て、修道院に籠った不思議な芸術家でした。
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🎬作品解説動画👇
フーゴー・ファン・デル・フース《画家の肖像》
1475年 メトロポリタン美術館
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ヘラルト・ダーフィット:メムリンク亡き後のブルッへの巨匠
- ダーフィットはベルギー北西部の都市・ブルッへの画家組合に所属し活躍した芸術家です。
- 1494年のメムリンクの死後には、ブルッへ画壇の重鎮として存在感を示しました。
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🎬作品解説動画👇
ヘラルト・ダーフィット
《エジプト逃避途上の休息》
1512年頃 メトロポリタン美術館
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ルーカス・クラナッハ(父):選帝侯に仕えたドイツの宮廷画家
- クラナッハ(父)(1472-1553年)は、ドイツ北東部の町、ヴィッテンベルクに工房を構えました。
- そして、領主のザクセン選帝侯・フリードリヒ3世に仕えた宮廷画家でした。
👇ザクセン選帝侯
フリードリヒ3世
1463-1525年
クラーナハが仕えた君主。
マルティン・ルターをかくまいました。
ルターはクラーナハ(父)の共でもありました。
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🎬作品解説動画👇
ルーカス・クラナッハ(父)《パリスの審判》
1528年頃 メトロポリタン美術館
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🎬作品解説動画👇
ルーカス・クラナッハ(父)
《十字架にかけられた二人の盗人いるキリストの哀悼》
1515年 ボストン美術館
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ハンス・ホルバイン(子):国際的な活躍で知られる画家
🎨ホルバイン(子)(1497/98-1543年)は、ドイツ南部の都市・アウクスブルクに生まれ、スイスのバーゼルやルツェルンで活躍した画家です。1526年には、ロンドンへも渡って活動しました。🎬作品解説動画👇
ハンス・ホルバイン(子)
《ベネディクト・フォン・ヘルテンシュタイン》
1517年頃 メトロポリタン美術館
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